2005年12月31日

「お母さん!」

という呼び声に飢えている。
 お咲は今まで何度両親に頼んだか分らない。哀訴し、涙をこぼしても、まだ病気が本復しないと思っている彼等はどうしても、咲二を会わせない。それどころかかえって、彼女の目にふれないようにと、心を配っている。「気違いが、自分で気違いだと知っておれば、ほんとうの気違いではないのだ」ということは確かではあるが、お咲に対しては、惨めすぎる。
 会わされなければ、会わされないだけ、お咲の愛情はますます熱度を加えて行くとともに、病的になって来たのであった。
「咲ちゃんや!」
 愛すべき息子の名を思っただけで、彼女の目前には、瞬く間に、彼の全体が浮み上った。
 彼が抱かれたときの膝の重み、腕のからみついた感じ。ほこりまびれに、乾き切った髪の毛の臭いや、彼特有の柿の通りな肌のにおいなどが、苦しいほどの愛情を、そそり立てた。
 ちょっとでも咲二の声が聞えると、飢えきった動物の通り、喘いだり、息をつめたりして耳をすませた上、畳に耳をぴったり貼りつけてまで、僅かな余韻も聞き逃すまいとする。
 閉っている無双窓を、差しているピンの先で、みみずの這うほど僅かずつ、時間をかまわずこじあけて、顔中に縦に赤い縞の出来るのもかまわずに、息子の様子を、偸み見ようとする。
 戸をこじっているとき、唇をかみしめ、かみしめ、外を覗いているとき、彼女の心の中には、ちょうど囚人が、爪の間にかくせるほどの鑢(やすり)で、鉄窓のボールトをすり切ろうとしているときの通りの、寸分異わない熱心さ――常識で判断出来ない忍耐と、努力、想像の許されないほどの巧妙な手段を発見すること――をもって、全身の精力を傾注することを惜しまなかったのである。もちろん惜しい惜しくないは、問題にもならなかったのである。
すすきの風俗
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2005年12月29日

「けれどもお前は男だ!

しっかりしろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 浩は、無音無形の、彼の守りに励まされては、涙を呑みこみ、足を踏みしめて、彼の道を進もうと努力していたのである。
 孝之進の健康は、浩の想像したより悪かった。彼はもうすっかり、永年の積り積った苦労に打ち負かされてしまったのである。
 お咲の部屋の、無双窓の下に敷いた床から離れることは、ほとんど出来ないようになった孝之進は、急に七十を越したように見える。すべての精神活動が鈍って、ただまじまじと一日中を送っている彼の仕事といえば、折々、枕の下に隠して置く浩からの手紙――もちろん時には、拡げたまま、布団の上に忘れて置くこともあるが――を偸み読みすることと、大きな大きな鼾(いびき)をかいて、眠ることとであった。眠っている間に見た夢と、現在の事実とが混同して、目が覚めたばかりには、妙に調和のとれない心持になどなった。
 M家の金のことなどは、もう思い出しても見なかった。考えて、気を揉んでも、体の自由は利かず、どうせなるようにほかならぬという心持もした。何もかも気がなくなった。自分の命に対しても、彼は愛情も憎しみも感じないようになってしまったのである。
 今も孝之進は、人気のないのを幸、例の通り手紙をとり出した。そして、昨日読まなかった分から、一通とり出した。それは浩が、おらくあてに書きながら、孝之進にもよめるように、いつもの大きな字で、父親の体を案じていること、自分の力の弱いことを気の毒に思うことを述べたものであった。一字、一字に浩の衷心から湧き出した優しい慰撫が漲っている。心のうちで、出来るだけくさしながら読んで行っても、孝之進の目にはしきりに涙が浮んだ。
 頭をガクンガクンさせながら、「もっともだ、もっともだ」と呟いては涙をこぼしていた孝之進は、フト今までひそまり返って物音一つしなかった隣室で、お咲の身じろぐ音を聞きつけると、急に気がついて、こごんだ体を引き起しながら、あちこちを見まわした。猫の子にさえも、泣顔などは見せたくなかった彼は、好いあんばいに、誰もいず、また来もしなかったのに少しホッとした心持になった。自分で自分をごまかす空咳を、二つ三つした。そして何心なく振向いて見ると、思いがけず無双の間から、瞳が二つ、キラキラと自分を見ているのに、すっかり驚ろかされた。お咲がこちらを覗いていたのである。
 日光にあたらないのと、病気とで、暗い中から僅か見える彼女の顔は凄い美しさがあった。全く瞬きをしないような光った二つの目は気味悪い。
 先刻(さっき)からの様子を見ていたな! と直覚的に思いながら、孝之進は少し狼狽した口調で云った。
「どうした? 呼ぶか?」
(用事のときには、おらくを呼ぶことになっていた。)
「お父さん。咲二は? 何しているの、呼んで頂戴な?」
 孝之進は、ちょっと顔を曇らせた。そして片手で手紙を枕の下に突込みながら、片手を振り振りなるたけお咲の方は見ないようにして、
「うんよしよし。あっちへ行っておれ」
と優しい声音で云った。
「またうんよしなの? お父さん! どうして咲二にそう会わせて下さらないの? え? ね、どうぞ――ほんとにちょっとで好いんだから、一目で好いのよ」
「ああよし、よし、待っておいで、今に会わせてやる。今に……。な、いくらでも会わせてやる」
「今に、今にって、私もう何度おたのみするんだか知れやしないじゃあないの? ひどいわあんまり!」
 急激に発作して、発狂したお咲は、このごろになっては、次第に精神が鎮まるにつれて、一日の中には、かなり度々正気に戻るようになって来た。
 フト夢からさめたように気が付いた瞬間、彼女は暫く自分がどこにどうしているのやら、まるで解らなかった。けれども、次第に正気でいる時間が長くなり、いつとはなく、ほとんど正調に復した頭脳になって来ると、自分の今までのことが、ちぐはぐながら思いやることが出来た。
 そうなって来ると、お咲には、その無一物な暗い、陰気な一部屋の生活が全く堪らないものに感じられて来た。息子が恋しくなって来た。彼(あ)の命にかけていとおしい咲二の顔を一目でも見たい。
横浜風俗
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2005年12月28日

それから彼が

鯡場(にしんば)の人足となるまでのことなどはもちろん、浩はこの騒ぎさえも知らなかった。
 苗字もなく、生きているのさえうんざりした者達の集っている、暗い罪悪にまみれている世界では、そのようなことは何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼等のいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、すべてが、しっくり落付いていたのである。

        十八

 それから暫く立っての或る日、浩は父親が卒倒したという知らせを受けた。
 後から後からと押しよせて来る不幸な出来ごと――自分の若さと健康、希望を持って励んでいる者にさえ、堪えがたく思わせるほどの悲しい事件――がどのくらい父親の老いた、疲れきってすぐ欠けそうにもろくなった心に打撃を与えたかということは、思いやるに十分であった。めきめきと衰えて行くらしい様子を考えると、全くゾッとした。今若し彼に万一のことがあったら一家はどうなるか? 自分の腕で老母とお咲親子を扶養して行かれないのは、こわいほど明白なことである。それかといって、どこに、何といって縋(すが)りつけるか? 浩はそれ等の限りないことに考え及ぶと、ただ小さい、力弱い自分ばかりが悔まれるのである。自分の年はどうにもしようがないのだとは思いながら、せめて三十近くにもなっていたら、どのくらいすべてが工合よく行ったか分らないのにという心持さえした。
 けれども、それ等はただ思うだけのことで、彼はやはりK商店の事務机の前に、勤勉でなければならなかったのである。それが彼の最上である。が、浩が要求する最上の標準に比べて、現在自分が実現することを許されている最上は、何という低い、小量のものであったろう! どんな人にとっても、ほんとうに世の中はただ楽しいものではない。光輝あるものではない。辛い。
 時には独り、全く独りで奮闘するのに堪えられないようになる。
広島風俗

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2005年12月26日

「こわがっていやがらあ!」

 賤しい笑い声がどよめいた。猪口や徳利(とくり)がガチャガチャ鳴った。
「まだ降参しねえんかい? わるく強情だなあ」
「怨めしいような面あしてやがるわ!」
「ここまでお出で、甘酒進上だ! へへへへへ」
「どうせ飲むんじゃあねえか? その面あ何だい!」
「喉から手が出そうだあな、馬鹿!」
「かまうない!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 庸之助は怒鳴った。
「かまうない! 畜生!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 けれども、もう危いと彼は直覚した。もう危ない。わざと目の前に出された猪口の中で、黄色く光っている液体に向って、制御しきれない勢で、心がころげて行くのを感じた。ちょうど止め度を失った車輪が、急傾斜な坂道をころがり出した通りに。
 庸之助はいても立ってもいられない心持になって、いずまいをなおしたとき、よろよろする一人が猪口と徳利を持って彼の前に進んで来た。
 突出した両手のなかで、猪口の縁と、徳利の口がカチカチとぶつかり合う。コクン、コクン酒が猪口に流れ出す! 庸之助は我にもあらず突立ち上った。顔をのめり出させて、凝視する眼が、貪婪(どんらん)に輝やいて酒の表面に吸い寄せられていた。極度の緊張と激昂とで、庸之助は傍でガヤガヤ騒ぐ物音などは、耳にも入らなかったのである。
「飲め!」
 彼はボタボタ雫をたらしながら、庸之助の口の辺へ猪口をさしつけた。痛いほど高い、高い香りがギーンと頭へ響く。
「飲めったら!」
「!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 庸之助は、いきなり相手の体に突掛かった。そして徳利に手をかけるや否や、満身の力をこめて、撲りつけた。徳利に触れた瞬間彼の衷心には、破れかぶれな、いっそ一息に煽ってやれというような思いが猛然と湧いていた。けれども次の瞬間、彼の手が無意識に振り上って、堅い手応えを感じた刹那、飽くことを知らぬ残忍性、気の違う憎しみが、暴風のように彼の心に巻き起ったのである。
 皆の立ち騒ぐ音に混って、上ずった庸之助の叫び声が物凄く響いた。器物の壊れる音。叫び。揺れる灯かげに、よろばいながら動くたくさんの人かげ。
 庸之助は、ますます狂暴になった。手にさわるものを、ひっつかんでは投げつけ、投げ倒し、阿修羅のように荒れまわった彼は、何か一つのものを力一杯撲りつけたとき、酒にまじって、生暖かい、咽(む)せるような生臭いものが、顔にとびかかって来たのを感じた。
「血?![#「?!」は横1文字、1-8-77]」
 彼は、思わずたゆたって、よろけた。
「血! 人殺し! 人殺し?![#「?!」は横1文字、1-8-77]」
 彼は身震いを一つすると一緒に、前後も見ずに裸足(はだし)のまま、戸外(おもて)へ飛び出してしまった。
 霧雨のする闇路を、庸之助は一散に馳けた。
福岡風俗
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2005年12月25日

ところが或る晩、

ショボショボ雨の降るときであった。
 妙に骨を刺す風と、身にしみ入る雨水の冷たさで、体中かじかむほどになって、腹を減らしながら庸之助は、帰りたくもない合宿所へ戻って来た。
 油障紙を明けると、濁った灯の光に照らされて、脱ぎ散らした草鞋(わらじ)や下駄で一杯になっている土間を越して、多勢が車座になって、酒を飲んでいるのが見えた。
「悪いときに帰って来た!」
 庸之助は、つとめて皆の注意を引かないように、隅の方で足を拭くと、そこそこに膳に向った。寒さで好い加減冷えている彼は、冷たい飯を食べると、歯の根が合わないほどになった。頭の下の方が、強直して来るような気さえして、ボッとする酒の香いが、しみじみとこたえた。絶対に禁酒してから、まだ一ト月ともならない彼の味覚は、はっきりその快い酔際の味を覚えている。が、おくびにもそんな気振(けぶ)りは見せなかった。彼等に知られるのが厭で、装うた無頓着さが、彼の態度を忽ち、ぎごちなくした。
 カチカチな干物をほごしていると、今まで何も知らないようにしていた仲間の一人が、
「オイ、一杯よかろう?」
と突然猪口(ちょく)をさしつけた。多勢の酔った声が、呑め呑めとわめいた。
「いやいらない」
「まあそんなに意地を張らなくたっていいやな!」
「飲みてえって、顔に書いてあらあ! ハハハハ!」
「ハハハハハハ、偉いよ!」
 面白そうに嘲笑う者達を、庸之助は鋭く睨み返した。
「何で飲むもんかい!」
 彼は、鼻について堪らない酒の薫りを強いてまぎらせながら、さっさと飯をしまった。そして隅の方へよって、揉みくちゃになって放ってある新聞を見始めた。けれども、実は見る振りをしたのである。字をたどりながら、彼の頭は、酒の香いと、味と、どうしたらこれに勝てるかということで一杯になっていたのである。皆が、自分の心の奥を見透しているのが知れれば知れるほど、庸之助はそうでないらしく見せたかった。今飲む酒は、単に自分を酒に負けただけに止めて置かないことを知っている彼は、どんなにしても辛抱し通さなければならなかったのである。
「けれどもまた何という高い香いだろう!」
 鼻を通り喉を過ぎ、胸の辺で吸い込んだ香いのかたまりが、熱くなって動きまわった。ムズムズ不安が心を乱す。負けてはならぬぞ。負けては大変だぞ! と思えば思うほど、無性(むしょう)に飲みたくなる。チラリと仲間の方を偸み見ながら、彼はゴクリと喉を鳴らした。
 それが不幸にも、彼等の目に止まった。
「へ! あの面!」
大阪風俗
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2005年12月24日

「ア夕刊、ア夕刊!」

と力なく叫びながら鈴を鳴らし始めた。賑やかな街の真中に、寒さに震えながら立ち竦(すく)んだようにしている爺さんは、まるで、瀕死の鷺(さぎ)が、目を瞑り汚れた羽毛をけば立てて、一本脚で立っているように見えた。
 浩は手持不沙汰にその様子をながめながら、考えた。
「職工になることはあり得べきことである。それもいい。けれども、自分に無断で姿を隠す必要がどこにあるだろう?」
 何か嬉しくない事件でも起ったのだろうということが、推察された。がどうしても仕方がない。爺さんに礼を云って歩きながらも、浩は気が気でないような心持がした。若し誰も知らないところで病(わずら)って、そのまま死んででもしまったらと思うと、自ずと涙ぐまれた。雨が降る晩などは、濡れそぼけて行倒れとなっている庸之助を夢にまで見ながら、また先のように思いがけない機会が、思いがけないところで彼に引き合わせてくれることを、心願いにしていたのである。
 けれども、庸之助と、浩との間には、そのとき既に偶然の機会も力の及ばない距離が出来ていた。二度目に浩が、索ねて行った時分には、彼は北海道の鯡場(にしんば)行きの人足の一人となって、親分に連れられ、他の仲間と一緒に、もう雪の降った北のはずれへ旅立ってしまった後であったのである。
 あの日「天の配剤によって」自分の心の中に希望を見出した庸之助は、今まで自分から進んで同化しようとしていた周囲に、急に反感を持ち、恥辱と憎しみを感じ始めたのであった。(庸之助は、俥夫と喧嘩をしたことから、交番に引かれたことまで、すべて天の配剤であると信じ、あの事件の代名詞として天の配剤を用いた。)善くなろう善くなろうとしている庸之助にとって、厭わしい、醜悪なこととほか感じられないすべてのことが、彼の周囲に渦巻いている。あらゆる下等な誘惑が、互の拒もうともせぬ間に漲りわたっている。
 庸之助はこの間に在って、独り自分の所領を守るべく努力したのである。けれどもそれは非常に困難なことである。彼等――庸之助からいえば「下劣な奴等」――の群は、今までおとなしく仲間になっているように見せかけて、急に寝返りを打った庸之助に対して、小面憎い感を免かれない。
「フン、貴様がそう出りゃ、こっちもまた出ようもあらあ」という反感が皆の心を占領して、庸之助が、真面目になればなるほど、総がかりの迫害が募って来た。一度、全身をあげて、彼等の仲間の一員となっていた庸之助の内心には、たといいかほど抑圧していようとも、どんな欲求があり、誘惑があるかということは、彼等にはよく解っている。こうすれば、こう感じるということを、千も万も承知でいながら、チクリチクリと苛なんでは、苦しむ彼をなぶり者にしていたのである。
 けれども庸之助は、ブルブルしながらも辛抱をした。そういううちにあっても、揺がない自分を保つことが、真実の修養なのだというのが、彼の確信であった。
池袋風俗
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2005年12月23日

       十七

自分等のごく僅かな家族の中から、二人まで発狂者を出したことは、浩に或る深い疑惑を起させたのである。幾代か前の祖先で、気の違った人はなかっただろうかということが、非常に考えられ不安でならなかった。父親には、病的な精神欠陥がないというだけでは、恐ろしく微妙な遺伝の証明にはならぬ。たくさん生れた同胞達(はらから)が、皆早死にをしたのも、そんなことが原因になっているのではあるまいかとも考えられる。浩はほんとうに恐ろしかった。
「若し万一そういうことがあれば、どうすれば好い? 俺は不安だ! 考えると堪らない!」
 けれども、浩は働かなければならない。その日の来るまで、彼の仕事をしつづけて行かなければならないのである。今ここで臆測してみたところで、解ろうはずのことでない、その万一の遺伝が現われるかもしれぬ日を怖れて、それまでの、どのくらいかの時間を空費することは彼には出来なかった。また、一方からいえば、万一遺伝されているかもしれぬと同様の万一さで、自分が除外例の者となっているかもしれない。きっとそうでないとは、誰が断言出来よう? それほどどちらも万一のことなら、出来るだけ明るい方面を見て進むべきであるのは、考えとしては解っている。けれども、気が狂ってしまった自分の姿を想像すると、静まったはずの心もとかく乱された。苦しくならずにおられなかったのである。
 今まで無意識に過ぎていたいろいろの精神作用――例えば人なみより強いと思われる想像力が突拍子もない幻影を見ること、ゴム風船を危かしくてふくらがせないような心持――が、皆病的ではないのかと案じられ始める。今にも微細な頭の機関が、コトリと調子を脱してしまいはすまいかと思われたりして、暫くの間浩は、非常に神経過敏にされていた。夜も、急に不安に襲われて飛び起きたきり、眠られないようなことさえあったけれども、日常の、厭でも応でも頭脳を秩序立てさせる事務が、いつとはなし自然にそれ等のことを恢復させた。
 日を経るままに、かなり冷静に考えられて来るようになると、或る程度まで、精神的の訓練を積んでいれば、多少の遺伝的精神欠陥も、補って行けるものであることが解って来た。
「生れた以上は、生きている以上は、その間だけ雄々しく過さねばならぬ。辛かろうが、悲しかろうが俺は堪える!」
 浩は、このごろしばしば彼(あ)の「気」を感じた。感激の涙に洗われては、彼の心が引き立てられた。そして、ほんとうに自分の運命を知って、立派に遣るだけのことは遣りとげた男として、自分のことを想うと、すべての苦痛を堪えるに十分な勇気が強く内心に燃え立ったのである。
 それから四五日立った或る晩、浩は外出したついでに、庸之助に会うつもりで――交叉点へ行ってみた。いつもいる辺へ行ってみたが姿がない。あちらこちら捜しても見当らないうちに、時間もおそくなりして、そのときは已むを得ず帰って来たものの、彼は妙に心配であった。病気なのじゃああるまいかと思ってみたり、何か電車のまちがいがあったのではないかとまで思った。けれども、訊いてみるところもなく、自分の暇もないので、思いながら二三日費して、或る晩また行ってみた。そのときはもう、見えないどころではなく、株でも譲られたらしい一人の老人が、
「ア夕刊、ア夕刊!」
と小さく叫びながら、淋しげに動きもせず鈴を鳴らしていた。
 失望しながら浩はその爺に訊いてみたが、解らない。
「お前さん、今時の若い者が……クフン、クフン、いつまで夕刊売りをしていますかい。大方どこぞの職人にでもなったでしょうよ」
 喘息だと見えて、喉をゼイゼイ云わせながら、気のなさそうに答えると、爺さんはまた不機嫌らしく、
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2005年12月22日

彼は、何か訊ねるように

狭い廊下の白壁を見廻した。五燭の電気に照らされて、ぼやけた彼方の方から、「それっきりか? それっきりか?」という合唱が迫って来るような気がした。が、それっきりである、まったく。彼は、おらくがただの一度もお咲をきびしく叱ったのを見たことがないと同様に、叱られている咲二を見たことがない。
「ただ愛情があっただけで?」
 浩は寒い心持になって、歯を喰いしばった。
「ただ愛情があっただけで!」
 彼のたよりない紙片の上にまで、卵を遺させた、「大自然の意志」が、二組のこの親と子を、静かに眺めているのを、浩は感じたのである。
 彼の母親は、まだ十六だったお咲を、可愛いばかりに、恭二が若く、また近親であるということをも考えずに嫁入らせた。そのとき、もう既に、咲二がすべての点に不幸な子として現わるべき胚種が、下されていたのである。けれども、誰もそのことは考えずに、咲二が変則な精神作用を持って出て来たことを、偶然のように、また有り得べからざることのように、驚き、かつ悲しんだのであった。
 お咲は、咲二を人の物笑いにさせたくなかった。どうぞ立派な人、せめては人並みにだけさせたいばかりに、禁厭にすがった。命より大切な子を、とんだことにした心痛のあまり自分まで物狂おしくなる。「自然は彼女等に、母親の愛情――その子のためには、何ものをも顧りみない熱情――をあまりに強く与えてくれすぎた」浩は堪えられない心持がした。二人の狂人を今日出(いだ)すまでには、もう幾年も前から、目にこそ見えね準備されていたのである。
 彼は全く辛かった。不幸すぎた。
「けれども、俺は立ちどまることは出来ない! あくまでも進まなければならないのだ。勇ましく、しっかりと、お前は男だ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 涙が、いくら押えようとしてもこぼれた。遣るだけは、岩にかじりついても遣り通さずにはいられない彼の心が、励ましであり、苦しみであった。
 自分の前途において、出会わなければならないどんな運命も、臆病に回避しようとは思わぬ。けれども……。
 自分に期待されている――家を継ぐべき者として、そのことは当然なこととして、他の周囲からは考えられている――と思うと、浩はこわくなってしまった。どこまで責任を持てば好いのか?

名古屋風俗
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2005年12月21日

各自の子孫に対して

持つ精神過程は、すべての生物が全く同一なのだ――たとい自意識のあるないの差はあっても――と思うと、浩はあらゆるそのときの親というものがいとおしいように感ぜられた。「親馬鹿」になるはずだと思われた。ならずにはいられないように、命ぜられているのだと、或る点まではいえる。浩は何だか妙な心持がした。善種学を人間が考える根本の心持が、痛切に感じられると同時に、どうせ結局は生活の敗残者とならねばならないように見える、体力にも智力にも適者となる素質の乏しい人までが、自分自身ようようよろめきよろめき歩きながらも、親という位置にほとんど無意識に立っている心持が可哀そうになった。
 すべてが大自然の意志である。日が輝やき、月が沈むのと何の差もなく、人が死に、生れ、苦しみするのを自然は見ている。が、決してそうであるのが無慈悲なのではない。求め索(たず)ねて得ようとすれば、自然はそれを肯定していると同時に、あるがまま、なるがままにまかせた心で、安穏にしていたとて、何の咎めも与えないのだ。偉いものだ、素晴らしいものだと彼は、つくづく感じたのであった。

 国元の父親から来た手紙を見たとき、浩は、小虫を見たときに感じたと全く同じな、一種の心持、全く説明の許されない一種の感にうたれたのである。悲しいというより恐ろしかった。すべては涙をこぼせる程度の状態ではなかった。まだやっと七つの咲二が、恐れ恐れている禁厭(まじない)を、観念した心持で掛けられる様子。お咲の狂乱した姿、おらくの念仏。父親が、不快なときに立てるあの陰鬱な足音……。
 不幸の底に沈んだ二組の親子の有様が、彼の目に活(い)きて動いた。何ともいえず痛ましいことだ。極端な悲しみが、彼の涙を凍てつかせて、肉体的の痛みを、眉と眉の間に感じたほどであった。
「誰がこれを起す原因となったのか?
 誰が咎められるのか?」
 浩は、うめくようにつぶやいた。
「姉さんは、お母さんに愛された。この上もなく可愛がられた。咲二は家中の者に心配されたのだ……」
「それっきりか?」
京都風俗
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2005年12月18日

体全体の長さが

鯨尺の一分にも足りない、針の元ぐらいの頭に、ようようこれが眼かしらんと思われるものが二つついている。見れば見るほど、小さいながら、調った、美しいというに近いほどの体形をしている。けれども、どうかしてもうすっかり衰えきって、三対あったらしい脚も、二本は中途から折れて、胴の傍に短かく根元がついている。すべてが、実にこまかく、きゃしゃにまとまっている。まるで生きていられることさえ疑われるほどである。が、羽根が見えない。紙の上に目を摺りこむようにして見ると、虫は仰向けになって、落ちて来たらしい。細い体に敷かれて、半透明な羽根が僅かばかり覗いていた。
 暫くの間虫は脚一つ動かさず、非常に静かにしていたが、やがて急に、真中の一対の脚を高く振りかざしながら、ごく狭い範囲――拇指を押しつけたくらい――の中を、頭を中心にしてぐるぐる、ぐるぐると動きまわった。
 実にかすかな、小さい運動ではあるが、虫にとっては大変に辛いらしい。細い体中をこわばらせ、ほとんどもがくように動く、浩は少しびっくりした。そして、多大の興味をもって観ているうちに、更に驚くべきことを発見したのである。この名も知れない一匹の小虫は、二つに裂けて見える胴体の最終部から、目にも見えないような卵を生みつけていたのである。
 毛筋ほどの脚を延ばしきり、体を燭(しょく)の柄のように反らせ、この小虫にとっては、恐らく無上の苦痛を堪えながら、完全に責任を果そうと努力しているらしい様子を見ると、浩は一種の厳粛な感動にうたれた。
 暫く静かにしていた虫は、また急に痙攣的に体中を震わすと、少し位置をかえて鎮まる。見れば薄茶色の、ペン先で作った点ほどの卵が、そこに遺っている。今にも捨てられてしまうかもしれない一片の古紙の上に、小虫は全精力をそそぎ尽してしまうほどの努力をもって、大切な子孫を遺そうとしているのである。すぐ捨てられるかもしれない紙の上に……。浩は「大自然の意志」が、あまり歴然と今自分の、この目前に示されているようで正視するに堪えない心持になった。悲壮な、また恐ろしい有様である。
 小虫も、もうじき死ぬのだろう。卵もすぐ紙ぐるみ、何のこともなく捨てられないとは、決していえない。けれども、今こうして小虫は、それらの一つも考えず、自然の命ずるがままに、勇ましい従順さで任務を果そうとしている。
 言葉にまとまらない雑多の感情が、あとからあとからと彼の心に迫って来た。浩は何だか、この一匹の小虫の前に――或る時は彼等の存在することにさえ頓着なく過してしまい勝なこの小虫の前に――自ずと頭の下る心持がしたのである。
渋谷風俗
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